年収300万円時代の社会と自分
2006年05月06日(土)

年収300万円時代の社会

森永卓郎氏が「新版年収300万円時代を生き抜く経済学」(光文社,2005)で描く社会像というのは,決して突拍子もないものではない.日本は「金を儲けたもの勝ち」というルールを採用しているのだから,そこへ行き着くのが当然と言えよう.つまり,範となるのはアメリカ型社会であり,少数の富裕層と圧倒的多数の低所得者層からなる階層社会である.

しかし,人類史上空前の高度経済成長を成し遂げた日本の基準から相対的に評価して「低所得」と言っているだけで,世界の先進国各国の労働者を見渡せば,その平均年収が500万円も600万円もあろうはずがない.森永氏が指摘するとおり,年収400万円ぐらいが標準的なのだろう.つまり,年収300万円台というのは貧困に喘ぐような水準ではないし,贅沢はできなくても,十分に幸せな生活を送れる水準のはずだ.だから,発想を切り替えて,年収300万円でも自分らしく幸せに生きようというのが森永氏の主張である.

異議なし.貧乏人のひがみだろうが何だろうが,金儲けだけが唯一の価値ではない.人様に迷惑をかけない範囲で,自分なりに人生を楽しんで死んでいくなら,それでいい.

年収300万円にも満たない現実

小泉政権が誕生し,「改革なくして成長なし!」の御旗のもと,構造改革といわれるものが進行している.正直,私には構造改革が何であるかが未だに理解できていないし,もっと根本的に,成長しなければならない理由もよくわからない.我ながら相当にアホなんだろうとは思うが...

ともかく,そういう時代にあって,森永氏が「新版年収300万円時代を生き抜く経済学」(光文社,2005)で自らの予測を自画自賛するなか,予想を超える事態になったと告白していることがある.それは,年収300万円を遙かに下回る低所得者層の誕生と増殖だ.つまり,正社員でない給与所得者が爆発的に増えたことである.パートやアルバイトで稼げるのは,せいぜい年収200万円というところだろう.さらに,フリーターやニートと呼ばれる人達もいる.これらの人達は,「年収300万円を稼げば何とかなる」という森永氏の提示した境界線を割り込んでいる.

私の周囲にはフリーターやニートをやっている人はいないし,それが社会問題であることは理解できても,実感や共感は伴っていない.例えば30歳にもなってフリーターやニートをやっている人達の思考を私は理解できないし,理解する努力をしようという気力も暇もない.

このような人達が,裕福な親などのすねをかじって生活できている間は良いが,生活ができなくなったときに何が起こるだろうか.先に,「人様に迷惑をかけない範囲で」と断ったが,現実には,犯罪という形で人様に迷惑をかける人達が急増することも考えられる.範となるのがアメリカ型社会とするならば,都市圏の一部地域ではスラム化も起こるだろう.

低所得と下流

年収で勝ち組と負け組を決めるなら,年収300万円は負け組になるだろうが,自分らしく幸せに生きている,あるいは生きようとしている人達を「負け組」に分類するのは,分類する側の愚かさ・狭量さを示す以外の何物でもない.金儲けの程度でしか人生を評価できないというのは何とも哀れである.

一方で,人生に対する動機付けに乏しい人達はダメであるという偏見を私は持っている.人生に対する動機付けに乏しい人達をカテゴリー化して「下流」と定義したのが,三浦氏の「下流社会 新たな階層集団の出現」(光文社,2005)である.ここでいう下流とは,収入の多寡に直接影響を受けるものではないが,実際には,人生に対する動機付けに乏しい人達の収入は低くなると予想されるため,下流と経済的負け組は不可分の概念であろう.

社会的階層の固定化

「運動会でかけっこをしても順位をつけない」などという馬鹿げた発想が大嫌いな私は,信賞必罰を重視する.結果の差が認められない社会になんて住みたくない.年収に差があるのは当然のことだし,貧富の差があるのも当然のことだ.

社会的に是非が問われるべきは,差の有無ではなく,差が本人の能力や努力とは無関係に世代を超えて維持されてしまうことだろう.つまり,社会的階層の固定化だ.佐藤氏は「不平等社会日本 さよなら総中流」(中央公論社,2000)において,現在の日本では,社会的階層の固定化が進行していることを実証している.三浦氏の「下流社会 新たな階層集団の出現」(光文社,2005)も含め類書は多い.

社会的階層が固定化される例は枚挙にいとまがない.政治家や開業医など特権が守られる職業に世襲が多いことは,いかにその商売が美味しいものであるかを如実に示している.しかも,一般的に,そのような職に就くためには多額の費用が必要となる.例えば,医者になるには医学部に行かなければならない.一流と思われている企業に就職するには,一流と思われている大学に進学するのが近道である.一流と思われている大学に進学するためには,義務教育の頃からレベルの高い教育を受けておく方が好都合である.こうして,学歴社会では,教育に莫大な費用負担が必要となる.

資産を持つ,あるいは年収の高い家庭の子弟は,良い教育を受ける機会に恵まれ,結果的に高収入が見込まれる職に就く可能性が高い.逆に,資産も収入も少ない家庭の子弟は,そもそも親が教育に関心がないという決定的な要因も含めて,良い教育を受ける機会に恵まれず,結果的に収入の低い職に就く可能性が高い.

国公立大学の入学金や授業料がハイパーインフレでも起こったかのように高騰を続ける昨今の日本においては,貧乏な家庭に生まれても勉強ができれば一流大学に進学できるというのは,嘘ではないにしても,胸を張って主張できることではなくなっている.

既得権益を持つ人達にとっては,社会的階層は固定されている方が都合がよい.あちこちで階層の逆転が起こるような社会では,枕を高くして眠ることができない.そういう意味で,社会的階層の固定化を促す学歴社会を否定する必要性はないのだろう.

学歴偏重の社会制度

学歴が無意味というのは暴論だ.そんなものは能力か努力が足りない者の戯言だろう.少なくともいくつかの大学は,国家の将来を担う人材を輩出することを,その使命とすべきである.そして,その素質がある人材を広く社会から求めなければならない.そのためには,少なくとも,貧乏であることが不利に働くような仕組みではいけない.

この全入時代に,様々な大学があっていい.何もしたいことがないから入れる大学にでも行って適当に暇を潰すという学生を受け入れる大学の存在も認める.しかし,国家の将来を担う人材を輩出することを使命とする大学と,モラトリアムを貪る学生に社会的肩書きを与えるために存在する大学とを同列に扱う必要はない.その両極にある大学に通う学生に対して,税金による同程度の補助が必要なはずがない.遊ぶ時間が買いたければ,自分の金で買えばいい.

激しさを増す国際競争の中で生き残るために,一般の企業は学歴によって社員を処遇するような愚かな真似はできなくなってくる.評価されるべきはその生産性であり,学歴は無関係だ.仮に日本人が現在の高所得を維持しようとするならば,誰にでもできるようなことしかできないのでは話にならないわけで,ピーター・ドラッカー氏が「プロフェッショナルの条件―いかに成果をあげ,成長するか」(ダイヤモンド社,2000)をはじめとする多くの著作で述べているように,労働者は知識労働者として知識の生産性を高める努力を怠ってはいけないし,企業は知識労働者に魅力のある職場を提供しなければならない.そこに学歴は無用である.それでも,新入社員を採用する際には,スクリーニングの道具として学歴は役に立つだろう.その有効性まで否定する必要はない.学歴が通用するのは,そこまでなのだから.

しかし,延々と学歴がものを言う社会制度が存在する.官僚システムだ.ピーター・ドラッカー氏は「ドラッカーの遺言」(講談社,2006)において,日本の官僚システムの問題点を以下のように指摘している.

保護主義と同様に前近代的な旧来の因習を引きずり,日本の変革を阻害しているのが官僚システムです.私の見るところ,日本は自身の歴史を知らないことによって自らを悩ませているのではないでしょうか.日本の官僚制度はどこから来たのか.そのことを問い直せば,自ずと改革の答えは見えてくるはずです.日本の官僚システムは,ヨーロッパ大陸の国々,なかんずくフランスの制度をモデルに構築されました.ビジネスモデルの多くをアメリカから輸入したのとは対照的に,意識的にドイツやフランスといった中央の国に範を求めたのです.フランスをモデルにしたことの最大の誤りは,学歴を過渡に重視している点にあります.

このような学歴偏重の社会制度は腐っているが,ある特定の大学を卒業することが大きな意味を持つこと自体は当然のことだ.すべての大学で同じ教育が与えられるべきであるはずがない.そんなことをしたら,最高学府としての大学の存在価値はなくなる.

エリート教育

大学が果たすべき役割やエリート教育についての私の考えは,これまでにも書いてきた.

2000年12月15日(金)の独り言「学生へのメッセージ」には,次のように書いてある.ここで対象としている学生は,京都大学工学部工業化学科の学部生である.

君達は,少なくとも見栄えのする大学にいることは事実だ.数年先に,有名な大企業や中央官庁に勤めることもできるだろう.それは,世間一般の感覚でいうエリートコースに乗っているということだ.つまり,君達はどうやらエリートらしいのだ.では,なぜ君達はエリートになってしまったのか.そのために何か努力をしただろうか.京都大学の難しい入学試験に合格したから,という回答があるかもしれない.では,その難関を越えてきた大学生は,自分だけの力で合格したのだろうか.個々人については知る由もないが,一般的に言えば,有名私立学校や塾などで英才教育を受けてきた人が多いのではないか.そういう教育を受けるのには,ある程度の資金が必要だし,そういう教育を受ける機会が同年代の日本人すべてに与えられているだろうか.言い換えれば,たまたま生まれた家が良かったから,京都大学に入学することができたし,大企業でそれなりに出世する道も開かれているし,高級官僚になるチャンスもあるということではないだろうか.もちろん本人の努力や能力も必要だが,真に公平な競争を勝ち抜いてきたと言えるだろうか.

社会的に上流あるいはエリートと見られる階層にいる人々の子供は,より高い確率で一流大学に進む.これは調査から明らかな事実である.そうして,社会的階層が固定化されていくのだとしたら,これは既得権益みたいなものでしかない.勉強もろくにしないで一流と世間が思い込んでいる大学を卒業し,大企業に就職して楽な人生を歩みたいと考えている学生がもしいるとしたら,その精神は,天下り先の特殊法人などで税金を食い荒らす役人のそれとどう違うのだろうか.

日本でも外国でも,機会の均等など存在しない.それだからこそ,社会的に上流あるいはエリートと見られる階層に所属している人々は自覚を持って欲しい.高い地位に伴う道徳的・精神的義務をNoblesse Obligeというが,この感覚を学生諸氏には是非身に付けて欲しい.

ある人が偉い人には2種類あると言った.本当に偉い人と,偉くなってしまった人である.学生諸氏には,日本の将来を担う偉い人に是非ともなっていただきたい.

また,2004年08月08日(日)の独り言「民度が低い」には,次のように書いてある.

エリートというと,それだけで嫌悪感を抱く人達もいるかもしれない.しかし,企業や国家など様々なレベルでの集団がどのような人間に指導されるべきなのかを考えたとき,高潔で有能な人間が必要であることは明らかなはずだ.そのような人間をエリートと称すなら,エリートは必要であるし,エリートを養成する教育もまた必要と考える.学歴を偏重する社会では,高潔などという概念は完全に放置され,ペーパーテストの点数だけに異様な興味を示す人間が増えてしまった.日本に限ったことではない,いわゆる先進国や先進国を目指す国では,どこでも似たような状況にある.このような状況は簡単には変わらない.しかし,変えるよう努力する義務を負うべき人達はいる.第一には,極めて優秀な学生を入学させている大学の教職員だ.入学してきた優秀な学生の才能を開花させ,学生に高貴な志を持たせる強力なチャンスがあるのは,その大学の教職員だ.日本国の将来を考えたとき,優秀な学生をいかに教育するかは極めて重要な問題だ.この責を果たせないような,また果たそうとする意欲のないような教職員はサッサと辞めるべきだ.志の低い人間が貴重なポストを占拠しているのは紛れもなく国家の損失だ.

ノブレス・オブリージ(noblesse oblige)という言葉がある.これは高い地位に伴う道徳的・精神的義務を意味する言葉だが,エリートとは,まさにノブレス・オブリージを果たす人間である.世界に必要なのは,エリートであり,エリートを養成する教育だ.エリートがいない状態は衆愚政治へ結びつくのではないか.

基本的な考え方は今も変わらない.私が大学教員という職を選んだのも,社会に貢献できる人材を育てるという職責に心惹かれたからである.単に研究がしたいとか,お金持ちになりたいというのであれば,当然異なる道を歩んでいる.

ドリーム(夢)かタスク(課題)か

上述ような考えに基づいて大学教育に携わっているため,「とりあえず,そこそこ有名で大きな企業に入社して,辞めさせられない程度には仕事をします」などという態度を良しとはしない.確かに,「京都大学卒業」の看板には,それができるだけの価値が今でもあるだろう.だが,そのような低い志のままでいて欲しくはない.

最近,2006年04月27日(木)の独り言「大学新入生へのメッセージ」に,以下のように書いた.

夢を持て.目標を持て.その実現のために最大限の努力をしろ.

別に大学に来て真面目に勉強しろなんて言ってるわけじゃない.自分の夢を実現するために,京大が無意味なら,やめればいい.意味があるなら,必死に勉強するしかないだろ.

これは京都大学工学部工業化学科の新入生を対象としたものだ.彼らには,夢を持ち,その実現に邁進するに足る能力がある.また,時間もある.もちろん,夢などというものが簡単に叶うはずはないが,そうだからと言って,最初から夢を持つことすら諦める必要はない.

一方,森永氏は「新版年収300万円時代を生き抜く経済学」(光文社,2005)において,仕事として何をするかは自由だが,それはドリーム(夢)としてではなく,タスク(課題)と捉えるべきだという.叶わぬ夢,それも極少数の経済的勝ち組になるという夢に縛られて,今を不幸に生きる必要なんてないというメッセージだ.むしろ,まだましと思える職業を見付けて,それにしがみつき,低所得でも幸せに生きる道を歩みなさいと諭す.

そのような生き方も潔い.この世に生を受けて,幸せに生きられるなら,それ以上に何を望むことがあるだろうか.だが,そういう生き方を目指す人を,トップクラスの大学で教育する必要もない.

家族の絆と地域コミュニティ

現在の日本の社会を眺めたとき,その余裕のなさに苛立ちを覚える.

2005年01月01日(土)の独り言「元旦営業の是非」では,以下のように書いた.

近年,元旦から営業する店が増えた.自分が元旦から買い物に行っておいて書くのもどうかと思うが,元旦からの営業を自粛できないものだろうか.確かに,いろいろな店が元旦も開いていれば便利ではある.しかし,店が開いていれば,そこで働いている人達がいるわけであり,正月三箇日すら家族と共に過ごせない人達がいるということだ.働く自由を認めないわけではないが,働かない自由も認められるべきだろう.日本の伝統的な休日である正月休みぐらい,少なくとも元旦ぐらいは,緊急性の低い仕事は休むべきではないか.それで売上げが多少減るとしても,現在の日本にとっては,家族の絆や地域コミュニティの方が大切ではないだろうか.

森永氏も「新版年収300万円時代を生き抜く経済学」(光文社,2005)において,欧州の労働者を例に挙げつつ,日本でも労働者が「働かない」と声を上げるべきだと述べている.金儲けをしたい人達が金儲けに奔走するのは勝手なのだが,コミュニティや文化を破壊しないでもらいたい.


コメントは,加納の独り言(エッセー)ブログ版"Chase Your Dream!"にて

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