2000年12月15日(金)
学生へのメッセージ

以下の文章は,「ある研究者の過去,現在,そして未来」と題して,京都大学工学部工業化学科の学生らを前に講演した内容である.

1.はじめに

2000年7月末に留学先の米国から帰国してすぐに,「卒業生が学生に語る会」の講演者に指名されていることを知った.それ以来,今時の京大生に自分は何を伝えるべきなのかという問いに悩まされることとなった.この講演会の目的の1つは,化学プロセス工学コースにやる気のある学生を引き込むために,化学工学の魅力を伝えることである.京大を卒業して京大で助手をしている世間知らずな小生としては,せいぜい自分の研究について語ることしかできない.しかし,難しい数式を並べ立てたところで,研究の魅力が伝わるはずもない.また,化学工学が実社会へどのように貢献しているかについては,企業の方々に講演していただいた方が信憑性がある.そこで,話の差別化を図るためにも,留学およびいくつかの国際会議への参加を通して得た体験談を中心に,大学における研究者の実体を披露することにした.無論,平均的な研究者の実体ではなく,もしかすると異端児かもしれない研究者の実体についてである.

以下に,小生が講演した内容をまとめるが,文章に残すのが恐ろしい内容もあるので,好き勝手に編集させていただくことにする.

2.留学体験談

1999年9月から2000年7月までの約10ヶ月間,研究室の強力なバックアップのもと,米国オハイオ州立大学(OSU)に滞在する機会を得た.OSUがあるコロンバスはオハイオ州の州都で,人口60万以上の比較的大きな都市ではあるが,プロスポーツチームを持たないために知名度は低い.留学に先立って複数の先生からいただいた言葉は「あそこは何もないから,研究に打ち込めるよ.良かったね.」というものであった.荒野に突如出現するキャンパスを思い描いていたが,実際に住んでみると非常に良い都市であった.この留学以前にも何度か米国を訪問したことはあるが,住んでみると,単なる訪問とは異なる,実に多種多様で新鮮な体験ができる.

生活していく上では,自分でアパートを借り,車を購入し,各種保険にも入り,様々な契約を結ぶ中で,トラブル発生時の対応が最大の問題であろう.小生の場合,レンタル家具屋が指定の日に家具を配達してくれなかったり,自動車保険を保険会社のミスで突然解約されてしまったり,知らない学校から昼夜を問わず連日電話がかかってきたり(コンピュータで自動的に電話するシステムであったため止めさせるのが大変だった),いろいろな問題に遭遇した.そのようなとき,英語で交渉する能力がなければ悲惨である.さらに,日常会話だけでなく,研究者としては,英語の論文を読み書きできること,英語で議論できることが必須の条件となる.

英語の修得に対する姿勢に基づいて,人を大きく3つに分類してみる.1)凄い人:必要性を痛感する前から取り組む,2)普通の人:悔しい思いをして一念発起する,3)ダメな人:ひたすら逃げ回る.さて,皆さんは何番だろうか.小生は,せめて普通の人でありたいと思う.英語力アップの秘策があるなら是非小生に教えていただきたいが,やはり本物の英会話に触れる必要があるだろう.この観点から,テレビドラマを見ることをお勧めする.ビデオに録画して数回見るようにすると良いだろう.また,漫画なんかを読む暇があったら,英語の小説でも読むと良いだろう.あまり難しいものは選ばず,推理小説などを楽しく読み進めるのが長続きさせるコツと思う.とにかく,一度読んでみることをお勧めする.自分がいかに英単語を知らないか実感できるから.

海外に行くと,日本人の特殊性が見えてくる.よく指摘されることではあるが,日本人には大勢いる場で自分の意見を言えない小心者が多い.この他にも,世代を越えた意外な共通点があることに気付く.第一は「講義において講義室後部に座る学生」と「学会において会議室後部に座る研究者」である.第二は「講義中に私語以外は全然話さない学生」と「学会中に仲間内での世間話以外は全然話さない研究者」である.これこそ日本の教育の成果であるのだろうか.ある意味凄いと思う.しかし,このような態度が良しとされる理由はなく,将来のある学生諸氏には意識改革を求めたい.留学体験談を終えるに際して,ここで1つの教訓を示しておく.

『意見を言わない奴はただのアホ』

この意味するところを理解し,日本人的ではない日本人になってもらいたい.すぐにでも,講義で実行してみてはどうだろうか.まさか京大生である自分は偉いなどと勘違いをしている学生はいないだろうが,自分が「井の中の蛙」であることを再確認しておくことも必要だろう.世界には本当に凄い奴がたくさんいる.

3.国際会議への参加

幸運にも,これまでに多くの国際会議に参加して,研究発表を行う機会を得ることができた.研究あるいは国際会議と聞いても実感が湧かない学生諸氏のために,国際会議で発表するまでの流れを紹介する.

国際会議が開催される前には,必ず開催案内が配布される.開催案内は旅行代理店に置いてあるパンフレットのように綺麗で,そこへ行きたいという気持ちを駆り立てるものが多い.これは,主催者が多くの人に来て欲しいと願っているからである.例えば,2000年6月にイタリアで開催されたADCHEMと略称される化学プロセスの高度制御に関する国際会議の開催案内の表紙には,中世の趣を残すピサの街並みと有名な斜塔が描かれている.これを見た人達は「斜塔が倒れる前にピサに行きたいな」と思うだろう.無論,小生の場合,この会議に相応しい自分の研究成果を発表するために参加を望んだわけである.念のため.

では,帰国直前に米国で参加したプロセスシステム工学に関する国際会議を例に,研究発表を行うまでの流れを簡単に述べる.まず,研究発表を行うために極めて重要な期日を列挙しておく.

  '99.09.31 Abstract締切り
  '99.11.30 Acceptance status連絡
  '99.12.31 審査用論文投稿締切り
  '00.03.31 Proceedings用論文締切り
  '00.07.16-21 会議

会議の約10ヶ月前にAbstractの締切りがある.Abstractとは要旨のことであるが,参加する会議によっては,要旨だけでなく数頁にわたる論文の提出を求められる場合もある.すなわち,約10ヶ月前には研究成果をまとめておかなければならない.提出した要旨あるいは論文に基づいて審査が行われ,2ヶ月後に当該研究を発表できるかどうかの通知が送られてくる.この会議の場合,最初に提出したのが要旨のみであったため,12月末に論文の提出を求められた.クリスマス休暇を取ることもなく,正月など関係ない米国に滞在していた小生は,12月後半は論文を仕上げることに専念していた.米国滞在中に4つの国際会議で発表したが,締切り時期というのは重なるもので,調子に乗って申し込みしたことを悔やんだりもした.しかし,よほど怠惰な人でないかぎり,締切りに間に合うように仕事を片付けようとするため,国際会議での発表は研究を進める動力源ともなる.このように,次々と迫る締切りに必死に対応しながら研究を進める様を自転車操業という.

提出した論文に基づいて審査が行われ,各論文は口頭発表とポスター発表に振り分けられる.幸いにも,小生の論文はPlenary Sessionで発表できることになった.Plenary Sessionとは全員出席の会議とでも訳せばよいだろうか.ともかく,会議参加者全員を集めた会場で30分間発表することになった.学会では,複数の口頭発表が並行して進められることが多い.例えば,毎年秋に開かれるAIChE(米国化学工学会)の会議では,30以上の会場が同時に利用される.会場数が増えれば参加者はそれだけ分散してしまうわけであるから,人気のないセッションだと,発表者と司会者だけしかいないという事態も起こらないとは限らない.そういう意味で,Plenary Sessionは注目が集まるだけに有利である.

3月末に論文を完成させると,後は発表準備である.会議参加者に興味を持ってもらえるように,研究内容を十分に理解してもらえるように,丁寧にスライドと発表原稿を準備する.当然,原稿は全文暗記である.原稿を読みながらボソボソと話すような発表が魅力的であるはずがない.随分と国際会議での発表を経験してきたが,絶対の自信がないかぎり,活用辞典で前置詞の正しい用法を徹底的にチェックし,単語の発音記号とアクセントを調べて原稿に書き込んでいる.この程度の努力を惜しんでいては,何回発表したとしても上手にはならないだろう.学会では,見るに耐えないスライドで,聞くに堪えない発表をしている研究者も見かけるが,決して仲間入りしてはならない.現状に満足した時点で,進歩は止まる.向上心を失わなければ,未来は開ける.

国際会議はとにかく疲れる.朝から晩まで英語で難しい研究発表を聞き,食事時には英語で世間話をする.そんな生活が3〜5日間ほど続く.しかし,会議の合間に素晴らしい異国文化に触れると,それまでの準備の苦しさも吹き飛んでしまう.ここで注意すべきことは,異国文化に触れる素晴らしさだけを,彼女や彼氏(あるいは配偶者)に伝えてはいけないということだ.参加するための苦労を十二分に伝えておかないと,羨望の眼差しで苛められることになる.特に相手が海外旅行好きだと大変である.

プロセスシステム工学に関する国際会議では,会議初日の午前中に発表が割り当てられた.司会者に紹介してもらい,壇上に立ち,持参したノートパソコンを接続して発表を始めようとしたそのとき,スタッフが誤ってパソコンの電源を引き抜き,バッテリーが故障していたパソコンは止まってしまった."Damn it!"とは,こういうときに使うのだろうと思ったものだ.さて,その試練をどうやって乗り越えたか.もちろん,コンピュータを再起動する方法もあるが,聴衆を待たせてしまう.小生は持参していたOHPシートを用いて発表することにした.備えあれば憂いなしとは,こういうことを言うのだろうと思ったものだ.ともかく,無事に発表することができた.研究内容にも関心を持ってもらえたようで,帰国後,関連する論文を送って欲しいとの依頼メールが何通も来た.

4.日々思うこと・感じること(1)

学生諸氏は自分の将来について,どのように考えているだろうか.小生が学部生のとき,ある先生が「化学工学は経営者になれる学問である」と言っていた.ケミストとケミカルエンジニアを比較するとそういう傾向は確かにあるだろうが,一般的にそんなことはない.昔は経営者になれたのかもしれないが,経営者には経営する能力がある人がなるべきである.実際,多くの日本企業が今どういう状況に直面しているか.経営者になりたければ,さっさとアメリカにでも行ってMBAでも取った方が良いのではないか.いくら研究ができても,マネージメントができるとは限らないのだから.さて,学生諸氏に問いたい.君は何がしたいのか,何になりたいのか.まさか二十歳にもなって,何も考えずにボケーッと過ごしているだけなんてことはないだろう.どこか財閥系の大企業に就職して,社長は無理だから,部長ぐらいにでもなるか.そう思っているとしたら,社長は無理でも部長になれる根拠は何か.勉強もせずにボケーッと過ごしていたら,いつか誰かが部長の椅子を与えてくれるとでも信じているのか.サンタクロースを信じる子供はかわいいが,そんな寝惚けた大学生は始末に負えない.

君達は,少なくとも見栄えのする大学にいることは事実だ.数年先に,有名な大企業や中央官庁に勤めることもできるだろう.それは,世間一般の感覚でいうエリートコースに乗っているということだ.つまり,君達はどうやらエリートらしいのだ.では,なぜ君達はエリートになってしまったのか.そのために何か努力をしただろうか.京都大学の難しい入学試験に合格したから,という回答があるかもしれない.では,その難関を越えてきた大学生は,自分だけの力で合格したのだろうか.個々人については知る由もないが,一般的に言えば,有名私立学校や塾などで英才教育を受けてきた人が多いのではないか.そういう教育を受けるのには,ある程度の資金が必要だし,そういう教育を受ける機会が同年代の日本人すべてに与えられているだろうか.言い換えれば,たまたま生まれた家が良かったから,京都大学に入学することができたし,大企業でそれなりに出世する道も開かれているし,高級官僚になるチャンスもあるということではないだろうか.もちろん本人の努力や能力も必要だが,真に公平な競争を勝ち抜いてきたと言えるだろうか.

社会的に上流あるいはエリートと見られる階層にいる人々の子供は,より高い確率で一流大学に進む.これは調査から明らかな事実である.そうして,社会的階層が固定化されていくのだとしたら,これは既得権益みたいなものでしかない.勉強もろくにしないで一流と世間が思い込んでいる大学を卒業し,大企業に就職して楽な人生を歩みたいと考えている学生がもしいるとしたら,その精神は,天下り先の特殊法人などで税金を食い荒らす役人のそれとどう違うのだろうか.

日本でも外国でも,機会の均等など存在しない.それだからこそ,社会的に上流あるいはエリートと見られる階層に所属している人々は自覚を持って欲しい.高い地位に伴う道徳的・精神的義務をNoblesse Obligeというが,この感覚を学生諸氏には是非身に付けて欲しい.

ある人が偉い人には2種類あると言った.本当に偉い人と,偉くなってしまった人である.学生諸氏には,日本の将来を担う偉い人に是非ともなっていただきたい.

5.日々思うこと・感じること(2)

ある朝,真面目ではないテレビ番組で,大学生の学力低下の元凶でもある,理系なのに数学や理科が大学入試科目にない,文系なのに国語や英語がない,という現実を報道していた.学生の数を確保するために,必要最低限の知識すら持たない者をも入学させようとする行為であり,大学を自滅させる行為だ.そういう大学は,大学の社会的使命について考えることなどなく,ただ生き長らえることだけが目的化しているのだろう.

そのテレビ番組で,コメント屋さんが偉そうに,「詰め込みの勉強なんて必要ない」とか,「私は学校で勉強したことなんか全部忘れています」とか主張していた.しかし,そんな主張は低俗な大人の不良自慢でしかない.だからどうだというのか.最先端の科学技術に携わる仕事をしていないから,日本の将来を真剣に憂い,その再生へ貢献しようという気概がないから,それこそテレビでくだらない無駄口をたたいて報酬がもらえるだけで満足しているから,勉強したことを忘れても良かったように感じるだけだろう.日本人全員がそんな馬鹿者になったら,だれが将来への責任を果たすのか.

公共の電波を利用して,そんなことを真顔で言える精神構造が信じられないが,もっと厄介なのは,そういう低俗な意見に頷く大衆が少なくはないということだ.多数決主義の日本では,愚かな多数派が良識を持つ少数派を抹殺するのが容易である.愚かな多数派が暴君として専制政治を行う状況について考えてみる必要があるだろう.この平等愛好家が多い日本で,仮に『選民教育(将来の日本を担う人材の英才教育)をすべきだ』と声を上げたらどうなるのだろうか.けしからんと叱られるのだろうか.反対する人達は,運動会のかけっこで順位をつけないような教育が正しいと信じているのだろうか,それが真に平等な世界を実現する第一歩なのだと.そのような教育の中で,どのようにして人材が育つというのだろうか.それとも,日本を救う総理大臣が突然変異で生まれてきて,あるいは宇宙から舞い降りて,日本国民を救ってくれるとでも信じているのだろうか.

話を京都大学の工業化学科あるいは化学工学専攻に限定したとして,教職員と学生は各々の責務を果たしているだろうか.向上心を失わず,日々努力を続けているだろうか.反省も含めて言うのだが,満足して良いレベルに達しているとは思えない.

さて,ここで述べた問題あるいは現代社会が抱える様々な問題について,学生諸氏はどのような意見を持っているだろうか.まさか参政権を持つほどの年齢にもなって,何も考えていないということはないだろうが.様々な知識を身に付け,自分で物事を考え,価値判断できる人物になれるよう,大切な時間を有効に活用して,有意義な大学生活を送ってもらいたい.

6.おわりに

「卒業生が学生に語る会」での講演内容をもとに,当日話したことも話さなかったことも,書きたいように書かせていただいた.後日集計結果を見せていただいたアンケートでも,それなりに学生は興味を示してくれたようであり,一卒業生として,講演者としての役目を全うできたのではないかと安堵している.

最後になりますが,今回のような講演の機会を与えていただいたことに感謝します.

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