プロセスシステム工学研究室では,毎年,数学ゼミを開催している.テーマとしては,線形代数と微積分(微分方程式)を交互に取り上げることが基本だが,より発展的な内容を取り上げることもある.この数学ゼミの起源は,20年以上も前に遡るという話だ.私がPSE研究室に配属された1992年頃にも,よく昔話を聞いたものだ.
この数学ゼミの最大の目的は,知識の習得ではない.もちろん,研究に役立つ知識を身に付けることは必要なことではある.しかし,知識を身に付けるための勉強なら,京大生なら誰でもできるだろう.敢えて研究室全体で取り組むほどのことではない.では,何のために数学ゼミを開催するのか.
数学ゼミの狙いは,次の3点に集約できるだろう.
その題材として,線形代数は非常に優れている.さらに,線形代数は,制御やデータ解析を使うときに必要不可欠な基礎知識でもある.つまり,プロセスシステム工学を専門としようとする学生にとって,一石二鳥のテーマなのだ.
伝統的に,テキストとして「線型代数と固有値問題」(笠原著,現代数学社)を利用している.1972年に初版が出た古い本で,一時絶版になっていたのだが,昨年,改訂増補版が出た.線型空間,ユークリッド線型空間,線型変換と行列,の3章の後に,固有値問題が扱われ,以降延々と固有値問題関連の話題が続く.
ちなみに,固有値や固有ベクトルというのは,多変量解析やデータ解析のキーである.これが理解できていないと,何もできない.
では,「理解するとはどういうことかを知る」,「論理的に考え抜く力を身に付ける」,「勉強する姿勢を身に付ける」ために,なぜ線形代数が適しているのだろうか.それは,線形代数の広大な世界を旅するのに,たった8つのルールだけを携えておけばよいからだ.
線形空間の元をa,b,c,係数体の数をx,yとする.
たった,これだけだ.これ以上の予備知識は必要ない.
数学ゼミの実施に際しては,まず,講師(チューター)役を務める学生を決める.チューターは大学院の学生から選ばれ,この学生がテキストに沿って順番に説明を行うこととなる.原則として,チューターは立候補で決められる.数学ゼミという場に参加するという意味では,チューターも一般参加者も同等だが,数学ゼミから得られるものは全く異なる.人に説明をするのと人の説明を聞くのとが,同じ経験のはずがない.このため,自分の実力に磨きをかけたい学生は,チューターに立候補することとなる.
数学ゼミ参加者は研究室のスタッフおよび学生であり,参加は強制ではないが,自分の将来をきちんと考える学生で出席しない奴はいない.
線形代数ゼミの第一回目は,第1章第1節「線型空間」を扱うことになる.イントロ的な内容であり,上述の8つのルールが登場する.一回生のときに最初の講義で習った内容だろう.テキストでは約3ページだが,その範囲を読み進むのに,数学ゼミではおよそ2時間をかける.というより,どうしても2時間程度はかかる.チューターを含めた学生参加者が,数学ゼミのレベルを実感するのに,それぐらいは必要なのだ.
ここでは,第一回線形代数ゼミでの遣り取りのいくつかを紹介しよう.
テキストには,節ごとに問が設けられており,理解できたかどうかを確認できるようになっている.線形代数ゼミでは,当然ながら,すべての問を解説してもらうわけだが,第1章第1節「線型空間」の問に答えるためには,
0・a=0
を証明する必要がある.この独り言を読むような人にとって,0・a=0,つまり,何かにゼロを掛けたらゼロになるというのは当然のことであり,疑いの余地はないだろう.だからこそ,問う必要がある.
なぜ,何かにゼロを掛けたらゼロになるのか?
さて,きちんと説明できるだろうか.ただし,前の0は係数体の数0であり,後ろの0は線型空間の元0である.
第1章第1節「線型空間」の問に答えようと頑張っていると,チューターである学生が次のような式を出してくる.
a-a=0
これまた当然すぎて,疑いの余地はないような式だ.しかし,線形代数ゼミでは,チューターに対して,次のような質問が飛ぶ.
その横棒みたいな記号は何?
何を質問されているのかすら分からない学生も多い.先に述べたとおり,線形代数の広大な世界を旅するのに,我々が携えているのは,たった8つのルールだけだ.もう一度,8つのルールを見て欲しい.線型空間の元a,b,cについては,+という演算しか用意されていない.つまり,"-"なんて記号は存在しないのだ.チューターには,"-"という記号の意味を明らかにして,
a-a=0
となることを証明することが要求される.
世の中,当然のこと,常識と思っていることほど,改めて説明するのが難しいことはない.数学ゼミでは,そこを徹底的に追求する.曖昧な説明,中途半端な説明に対しては,容赦なく質問が浴びせられる.この体験を通して,数学ゼミ参加者は,自らの能力を高めていく.その結果として,数学ゼミの狙い
が達成されるわけだ.だから,先に進むことは重要視されない.かつて,3時間の数学ゼミで,3行しか進まなかったこともある.もしこんな講義をすれば,即刻ダメ教員の烙印を押されてしまうだろう.このような教え方を受け入れる余裕は,今の社会にも大学にもない.
研究成果が求められ,金を取っ来いという強いプレッシャーを受け,さらに外部評価だ何だと資料作成に明け暮れる昨今の大学教員にとって,毎週数時間を割くのは簡単なことではない.しかし,プロセスシステム工学研究室では,このスタイルを頑なに守り続けている.
研究室卒業生が職場の先輩・同僚・後輩について,「みんな,まともなレポートは書けないし,言ってることも滅茶苦茶.」と辛辣な批評をするのも仕方ないことだ.在学中に研究室で受けてきた教育が全く違うのだから.