徹底的な反復学習によって培われた基礎学力があるからこそ,応用問題もできるようになる.このような考えに基づいて,百マス計算で成果を上げた陰山氏[1].
教育は人生を豊かにするものでなければならない.受験勉強のような偽物の勉強はやめて,自分で考える力を身に付けよう.そのための手段として,ストーリー作文を提唱し,成果を上げた芦永氏[2].
両氏の著書には,教育で目指すべきものとして,「本当の学力」という言葉が使われているが,この「本当の学力」を身に付けるために採用している手段は全く異なる.実際,百マス計算とストーリー作文では似ても似つかない.ところが,書かれている内容には共通点も多い.第一の共通点は,子供が学力を身に付けるための最も重要な基盤は家庭であり,家庭での親子の会話,団欒が大切であるというメッセージである.第二の共通点は,百マス計算は算数の力,ストーリー作文は国語の力を身に付けることを目的としているが,その他の教科にも好ましい影響が現れることである.他の教科の成績が良くなる理由の1つとして,生徒が自信を持つことが挙げられよう.いわゆる成功体験である.
子育てにおける親の大切さは多くの人が指摘している[3,4,5]ので,改めて触れることはしない.ここで対象とするのは,乳幼児や小学生ではなく,大学生である.「大学生になるまで考えることを放棄してきたのだから,もはや手遅れだ」と片付けてしまうわけにもいかない.
勉強について語るとき,高校以前と大学以後とで区別されることが多い.高校までの勉強は与えられた問題を解くというスタイルであるのに対して,大学での学問は自分で問題を見付け,その問題を解くというスタイルであると言われる.高校から大学へ進学する際に,問題解決能力中心の勉強から問題設定能力を求められる学問へ移行するのだと表現することもできる.あるいは,大学での学問は,高校までの勉強とは異なり,自発的・内発的に行われるべきものである[6]と表現しても良い.
だが,果たしてそうだろうか.大学に入るまでは,問題設定能力を無視して,問題解決能力の開発のみに集中すればよいというのには何か根拠があるのだろうか.豊かな人生を送るためには,問題設定能力が重要であることを既に見てきた.そうであるならば,もっと早い時期から問題設定能力を身に付けるよう努力すべきなのではないだろうか.大学生になるまで待つ必要はないはずだ.
前述の芦永氏がストーリー作文を通して目指しているのは,まさに,子供に問題設定能力を身に付けさせることである.その意味で,百マス計算とストーリー作文は異質の勉強法だと言えよう.もちろん,ストーリー作文が優れていて,百マス計算が劣っているというのではない.基礎学力を身に付けるために,百マス計算は素晴らしい方法であり,それだからこそ素晴らしい成果を上げることができた.ただ,そこで目指しているのは問題解決\力の養成である.また,作文をしたら問題設定能力が身に付くわけでもない.そんな安易なものでは決してない.正しい方法で取り組めば,考える力が身に付き,その結果として問題設定能力までもが身に付くのである.
では,大学生に作文を勧めたら良いのだろうか.少なくとも,作文をさせないよりは,させた方が良い.実際,まともな日本語で文章が書けない,論理的に文章を構成できない,自分の意見を文章にできない,そもそも文章にする自分の意見がない,そんな大学生は珍しくない.そんなことでは大学生失格だと思うのだが,これが現実である.実際に作文をすると,上記のような問題点が一気に明らかになる.文章を書くというのは,非常に考える力が要求される作業である.訓練として作文は非常に有効である.私が独り言を書いているのも,自分の考える力と表現力を鍛えるためである.暇潰しをしているわけではない.
研究者が論文を書くことを要求されるように,研究室に配属された学生は研究レポートを書くことを要求される.書くべき内容は予め決まっているため,作文とは随分と違うが,文章を書くという作業であることに変わりはない.自分の意見をまとめることを要求されるし,正しい日本語(あるいは英語)で論理的に書くことを要求される.したがって,しっかりとしたレポートを書かせるというのは,学生に力を付けさせるために極めて有効な方法だと考えている.もちろん,力を付けさせるためには,レポートを書かせるだけでは不十分であり,レポートを徹底的に添削する必要がある.その手間を惜しむか否かで,教員としての資質も評価できると思う.