本当の学力と本当の評価(前編)
2004年06月06日(日)

変化がますます激しくなるであろう今後数十年間に技術者や研究者として生き抜くために,より究極的には豊かな人生を送るために,大学生は何をなすべきか.そして,学生のために教員は何をなすべきか.

大学に身を置くものとして,常々このことに思いを巡らしている.

行き着く先は,学生は力を付けなければならず,教員はそのための支援をしなければならないということだ.

ここで,明確にすべき事柄が1つある.力とは何か.

ここで言う力とは,問題設定能力と問題解決能力の2つとして良いだろう.技術者あるいは研究者であれば,自分で目標や解決すべき問題を設定し,その目標を自分の力で達成,あるいはその問題を自分の力で解決しなければならない.技術者や研究者と限定するのは,私が工学研究科に在籍しているからであるが,別に限定しておく必要はない.文系か理系かを問わず(そもそも文系と理系という分類に価値があるのか疑わしい),問題設定能力と問題解決能力の2つが身に付いていなければ,公私いずれにおいても豊かな人生を送ることができるとは思えない.問題を目標と置き換えて,目標設定能力と目標達成能力の2つが人間に不可欠な力であると言い直せば,この理由がより明確になるだろう.

自分の目標を自分で設定できない.

こういう人を想像してみよう.これは重大な問題ではないだろうか.人生というのは,何も死の間際になって忽然と姿を現すわけではない.日々の積み重ねが人生そのものである.目標のない日々は一体どのような人生を形作っていくのだろうか.

ところが現実には,夢や目標に向かって邁進しているという大学生の数は期待しているほどに多くはなさそうだ.「将来どんな仕事がしたい?」とか,「将来の夢は?」と尋ねても,「・・・」と黙り込んでしまう学生が少なくない.その一方で,「夢はノーベル賞受賞!」と答える学生も少なくない.サッとノーベル賞という言葉が出てくるあたりは,さすが京都大学の化学系の学生だと妙に感心したりもする.しかし,この答えも検証しておく必要がある.

目標は受賞です.

この言葉は何を意味しているのだろうか.何がしたいのかが全然伝わってこない.そもそも賞を受けるためには,賞を与える側の人に評価してもらう必要がある.他人に高く評価してもらうことが目標なのだろうか.私の疑問はこうだ.

受賞は,自分で設定した目標であるか?

受賞というのは授賞者が設定したものではないのだろうか.私は,受賞というのは外部から与えられたものであって,自分自身で設定した目標ではないと思う.もちろん受賞は名誉なことであるし,ノーベル賞を受賞できるほどの優れた成果を残せるというのは素晴らしいことだ.しかし,名誉や名声のように,価値判断の基準が他人の中にあるものが,豊かな人生の目標となりうるのだろうか.マルクス・アウレーリウスは次のように述べている.

名誉を愛する者は自分の幸福は他人の中にあると思い,
享楽を愛する者は自分の感情の中にあると思うが,
もののわかった人間は自分の行動の中にあると思うのである.

自分の目標は自分で設定できるべきだ.目標設定能力を身に付ける必要がある.ただし,豊かな人生を送るという観点からは,目標がどのようなものでも構わないとは言い難い.自分自身でその価値を判断できる目標であった方が良い.このような観点から,受勲や受賞に固執する大人というのは実に見苦しく感じる.

第一の関門を突破し,目標を設定したとする.次は,その目標を実現しなければならない.目標を実現するためには,綿密な調査や計画,そして弛まぬ努力が必要となる.すなわち,目標達成能力が不可欠である.

目標設定能力と目標達成能力とは,概念的には上記のようなものだ.このような力は,大学生に限らず,大人にも子供にも必要なものである.

ここで話を発散させてしまわないために,以下では,学生の学力としての問題設定能力と問題解決能力に限定して考えよう.

受験で問われるのは,問題解決能力である.受験と言えば大学受験のことだったのは昔の話で,今や幼稚園に入るために英才塾に通う時代だ.この結果,幼い頃から二十歳近くになるまで,問題解決能力の向上に明け暮れることになる.そして,この問題解決能力というのも,ほとんど記憶力という程度の意味しか持っていないようだ.受験で合格することが究極の目標であるのならば,数学の力というのは問題をパターンに当て嵌める力であり,理科や社会は記憶力がすべてで,自然への感動や思想などは邪魔物でしかない,という理解でも良い.しかし,受験で合格することは究極の目標でありえない.その先へと人生は続いていく.

受験で問われるのは問題解決能力であるが,受験で合格すれば,問題解決能力は身に付いていると言えるのだろうか.そうとは言えない.実際,受験で試されるのは,正答に到達できることが約束されている問題を制限時間内に解決する能力である.このような能力だけで何とかなるのは受験までだ.人生において解決しなければならない問題には,答えは用意されていない.答えを導き出すための公式もない.記憶力があれば解決できるわけでもない.そういう意味で,豊かな人生を送るために必要な問題解決能力と受験で試される問題解決能力は全く異なっている.レベルが違うというだけではない.質が違うのだ.

このため,受験勉強は役に立たない.大切なのは,パターン認識力や記憶力ではなく,考える力だ.

考える力は考えることでしか身に付かない.ところが,効率的な受験勉強は考えることを排除してしまう.じーっとして考えている暇があるなら,公式でも覚えなさい,というわけだ.これでは,考える力は身に付くはずもない.挙げ句の果てに生まれるのが,マニュアルがないと何もできない人間である.しかし,その本人を責めるのは間違いだ.責任は親や教師にあるはずなのだから.それに,本人はそのような個性を持ったまま生きていくしかないのだから.

もちろん,自分で問題を設定する際にも考える力が必要である.つまり,自分で問題を設定し,自分で問題を解決できるようになるためには,考える力を身に付けなければならない.

でも,どうやって?

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