大学で何を伝えるべきか(2)
2003年05月03日(土)

もう2年以上前のことになるが,2001年3月24日の独り言において「大学で何を伝えるべきか」について書いた.そこには,研究室の学生に身に付けて欲しいものとして,1)徹底的に考え抜く姿勢,2)論理的な文章を正しい日本語で書く力,の2つが挙げられている.

先日,在学生から「修士課程修了時に何を身に付けておくべきか?」という質問を投げかけられて,改めて,この問題について考えてみた.学部とは異なり,修士課程では研究に重点が置かれる.そこで,修士課程2年間で,研究を通して何を身に付けるべきかを整理してみたところ,以下の6項目ぐらいになると考えた.
 1)取り組むべき課題を明らかにできる
 2)必要な知識を身に付けることができる
 3)問題解決のためのアプローチを提示できる
 4)全力を尽くして課題に取り組むことができる
 5)成否に関わらず,報告書を書くことができる
 6)魅力的なプレゼンテーションができる
これらは研究を遂行する際に避けて通ることのできない一連の作業である.これらの作業を自分でこなせる能力を身に付けることが,修士課程では求められるのだと思う.2年以上前の独り言で述べた「徹底的に考え抜く姿勢」と「論理的な文章を正しい日本語で書く力」の2つが,この6項目と密接に関係していることは明らかだろう.

さて,ここで検討しておくべき問題は,この6項目を学生に身に付けさせることが本当に学生のためになるのか,それとも世間知らずの教官の単なるエゴなのか,ということだ.改めて指摘するまでもないが,「教官が正しいと思いこんでいる」のと「正しい」のとは全く違う.私にとっては,自分が正しくあるために,外部からの意見に耳を傾けることが極めて重要である.ちょうど良いタイミングで卒業生が研究室を訪ねてきてくれたので,研究室で身に付けたことで何が役立っているか,何を身に付けておくべきだったか,ということを尋ねてみた.その卒業生が言うには,「論理的にキチッと考える力」と「正しい日本語でレポートを書く力」を身に付けられたことは非常に自分のためになっているということだった.実際,企業には,そういう類の訓練を受けてきていない人達がいて,そのために不利益を被っているとのことだ.例えば,誰かが書いた支離滅裂なレポートを見て,そのレポートに書かれている内容を信用することができるか,ということだ.まともな文章になっていないのに,その内容を信用できるはずはない.これは論文でも書籍でも同じことだ.ところが,それなりの研究者が書いたものでも,その日本語が極めて酷い場合がある.主語と述語が対応していないとか,そういう小学生レベルの日本語の問題だ.最近,「図解ナノテクノロジーのすべて」という本を読んだのだが,このよく売れている本でも,日本語になっておらず,何が言いたいのか分からない部分があった.この本には約100名の著者がかかわっているのだが,その中には,まともな日本語が書けない研究者もいるということだ.本を書くぐらいの年齢にもなると,周囲に注意してくれる人もいなくなってくるのだろう.30歳や40歳になって,まともな日本語すら書けないようでは困るので,学生に対して徹底的に指導する義務が教官にはあると思う.

論理的な文章を正しい日本語で書く力を学生に身に付けさせるためには,学生の書いたレポートを徹底的に添削するしかないだろう.ところが,この添削作業というのは途方もない重労働である.真剣にやれば,これほど大変な作業もないと思えるほどだ.そうであるから,とりあえず研究を前に進めることが目的であるなら,面倒なレポートの添削などせずに,研究経過が把握できたらそれだけでよしとすれば良い.その方が教官にとっても学生にとっても楽だからだ.それで研究が進まなくなるわけでもなく,特に問題はないように思える.そんな楽な道を選ぶのは容易だ.しかし,それではいけない.学生の将来を考えるならば,教官として人材育成を通して社会に貢献する気持ちがあるのであれば,あえて大変な道を選ぶ必要があるはずだ.こういう地道な活動は,決して外部評価の評価対象にはならないし,研究費を稼ぐことにもつながらないし,それによって給料があがることも昇進することもないだろう.すぐに結果が見えるものでもない.逆に,添削作業なんてせずに,その時間で自分の論文を書いている方が現行の制度下では高い評価につながるだろう.しかし,だからといって,手を抜いて良い理由にはならないはずだ.大学にいる限りは,この信念を忘れずに活動しようと思う.

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