教育
2003年03月29日(土)

自分のことは棚に上げて,何でも学校や教師の所為としたがる人達が多いが,社会において自らが果たすべき責任を認識できない大人というものには全く困ったものだ.しかしそれよりも,教育が官僚の統制下にある状況では,官僚の認識が問題となろう.何かにつけて天下り先を確保することに腐心するようでは救いがたい.さて,実際のところ,近代の教育制度の何が問題なのであろうか.クリストファー・ラッシュの言葉を引用しておこう.

【クリストファー・ラッシュの言葉より】
マンの教育哲学の非常な弱点となっているのは,教育がなされうるのは学校の中だけだという思い込みである.マンはこの致命的な思い込みを,それ以降の代々の教育者達に自分の知的遺産の一部として遺贈したなどというのは,恐らくフェアではない.何のかんの言っても,学校の向こう側にある世界を見る能力の欠如−学校と教育が同義語であるかのごとく話したがる傾向−は,恐らくは専門的な教育者の職業上の落とし穴,仕事のうちに組み込まれた盲目さの一形態と見なされてしかるべきものだからである.・・・我々はマンの最悪の部分を我々の学校のうちに取り入れ,どういうわけか最良の部分を不覚にも見失ってしまっている.我々は教員免許状のために必要な資格を念入りにこしらえることによって教育を専門化したが,教育は名誉ある仕事であるというマンの考えを制度化することには失敗した.我々は学問的水準を高めたり教育の質を改善することなしに,広範囲に及ぶ教育の官僚制を作り上げた.教育の官僚制化は反対の帰結をもたらし,教師の自律性を弱め,教師の判断を行政官の判断ですげかえ,教師となるに相応しい才能を持った人々からその職業に就こうとする意欲を失わせた.我々は純粋に学問的な科目だけを強調することはやめよというマンの忠告に従ったが,その結果として生じた知的強靱さの喪失の見返りになるほど,マンが非常に重要視した人格的特徴−すなわち自助自立の精神,礼儀正しさ,満足の遅延能力といったもの−を育成する学校の能力に改善がみられたというわけではない.知的鍛錬が「社会的技能」の犠牲になっているという周期的に生じる再発見は,教育の道徳的次元を救わなければならないというマンの自覚さえも欠いた,ただ教育の認識的次元のみを強調する誤った考えに我々を導いてきた.学校は神話や物語や伝説から遠ざかり,ありのままの事実に張り付いているべきだと主張する,マンの想像力に対する不信と狭苦しい真理概念を我々は共有しているが,今日では許容可能な事実の範囲はマンの時代よりもさらに痛ましいほど限定されている.・・・マンと同様我々は,学校は我々を悩ませているあらゆる問題に対する万能薬だと信じている.マンとその同時代人達は,良い学校は犯罪や青少年非行を根絶し,貧困を一掃し,「遺棄され,のけ者にされている子供達」を有為の市民に作りかえ,貧富差の「偉大なる平衡装置」という役割を果たすことができる,と主張した.本当は彼らは,いくつかのもっと控えめな期待から出発すれば良かったのだ.ホレス・マンがマサチューセッツ州の学校管理を引き受けてから150年,もし我々がそこに学んで良い教訓があるとすれば,それは,学校は社会を救うことなどできないということである.犯罪と貧困はいまだ我々のもとにあり,貧富の差はまだまだ広がり続けている.一方で子供達は,いや青年達までもが,ろくに読み書きできなくなっている.恐らくは,すべてをやりなおさなければならないときが−もしその時機をもう逸してしまったのではないとすれば−来ているのだ.

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