童話
2003年03月12日(水)

【ひとつめ】

ある森に7人の小人達が暮らしていました.ある日,7人の小人達のところへ,これまで見たことのない小人がやってきて,「ぼくも仲間に入れてよ.」とお願いしました.そこで,7人の小人達は会議を開いて相談することにしました.

ある小人が「仲間に入れてあげようよ.」と言うと,別の小人が「入れてあげてもいいけど,そいつに掃除も洗濯も食事の用意も全部させようよ.仲間に入れてあげるのだから,それぐらいしてもらってもいいだろう.」と言いました.「うん.仲間に入れて,仕事をみんなやってもらおう.」とか,「いや.そんなことしたら可哀想じゃないか.あの人が仲間になっても,仕事はみんなでしようよ.」とか,「でも,ぼくは新しい人を仲間に入れるのは嫌だなぁ.」とか,ほかの小人達も口々に好きなことを言い出しました.みんなが勝手に話すので,意見がまとまりません.そこで,声の大きな小人が立ち上がり,「よし.仲間に入れてやろう.でも,その代わりに仕事は全部やってもらうことにしよう.」と決めてしまいました.

すると,その様子を部屋の外で聞いていた白雪姫が入ってきて,「小人さん,あの人も仲間に入れてあげてもらえませんか.ここに来たばかりで,きっと何もわからず,困っているわ.そのうちに,ここでの生活にも慣れるでしょうから,それまでは仕事も許してあげてもらえないかしら.」と言いました.7人の小人達は白雪姫が大好きなので,「姫がそう言うなら,いいよ.仲間に入れてあげる.仕事も僕達でするよ.」と答えました.

ところが,なまけものの小人だけは「なんだよ.姫はああいうけど,新しい奴に仕事をさせればいいじゃないか.仲間に入れてやるんだから,それぐらい当然だよ.せっかく仕事をしなくてよくなると思ったのに.」と心の中では納得しませんでした.そこで,このなまけものの小人は,みんなが見ていないところで新しい小人をいじめるようになりました.さらに,仕事をみんなでしようと言った小人にも辛くあたるようになりました.新しい小人は大変働き者で,辛抱強かったので,そのことを優しい白雪姫には決して言いませんでした.

【ふたつめ】

ある森に7人の小人達が暮らしていました.ある日,7人の小人達のところへ,これまで見たことのない小人がやってきて,「ぼくも仲間に入れてよ.」とお願いしました.そこで,7人の小人達は会議を開いて相談することにしました.

ある小人が「仲間に入れてあげようよ.」と言うと,別の小人が「入れてあげてもいいけど,そいつに掃除も洗濯も食事の用意も全部させようよ.仲間に入れてあげるのだから,それぐらいしてもらってもいいだろう.」と言いました.「うん.仲間に入れて,仕事をみんなやってもらおう.」とか,「いや.そんなことしたら可哀想じゃないか.あの人が仲間になっても,仕事はみんなでしようよ.」とか,「でも,ぼくは新しい人を仲間に入れるのは嫌だなぁ.」とか,ほかの小人達も口々に好きなことを言い出しました.みんなが勝手に話すので,意見がまとまりません.そこで,声の大きな小人が立ち上がり,「よし.仲間に入れてやろう.でも,その代わりに仕事は全部やってもらうことにしよう.」と決めてしまいました.

その様子を部屋の外で聞いていた白雪姫は「新しい小人さんは可哀想だけど,頑張ってもらうしかないわ.そうしないと,あの(なまけものの)小人さんが怒って何をしてしまうかわからないもの.そのうち,新しい小人さんもここでの生活に慣れてくれるわ.」と思い,そのことについては小人達に何も言いませんでした.

【白雪姫の功罪】

この2種類の物語(?)を読んで,どちらの白雪姫の態度が正しいと感じるだろうか.ひとつめの物語では,白雪姫は自分の正義感に従うことを小人達にも求めた.小人達はそれに従ったが,それを快く思わない小人が新参者をいじめるという結末を迎えた.白雪姫にしてみれば,自分は正しいことを言っただけであり,悪いのはなまけものの小人だということになる.小学校の道徳の時間なら,ひとつめの物語を題材にして,なまけものの小人が悪いことをクラス全体で確認したら良いのだろうが,我々はそこで止まるわけにはいかない.なぜなら,白雪姫にはふたつめの物語のように振る舞う自由があるからである.ふたつめの物語における白雪姫は,自分の言動が与える影響を考慮して,自分の正義感を小人達に強要せず,黙っている.この行為は正しいのだろうか.

どちらの白雪姫も,決して悪女ではない.ひとつめの物語では,白雪姫は自分が正しいと思うことを小人達に言っている.それは道徳の時間に先生に誉めてもらえるような内容だ.誰も白雪姫を悪人だと責めることはできない.多くの人は,この白雪姫の態度に共感を覚えるだろう.一方,ふたつめの物語では,白雪姫は自分が正しいと思うことを口には出さず,新しい小人がみんなと仲良くやっていくことを優先させている.このように黙っている白雪姫は道徳的に劣っているだろうか.決してそうではない.未来に起こりうる状態を予想して,新しい小人のためになるように行動しているのであるから,十分に道徳的であると言えよう.そうであるなら,道徳あるいは倫理とは一体何であるのか.

【解釈】

白雪姫とは全然関係ないが,政治家のあるべき姿を示すために,「職業としての政治」という講演の中でマックス・ウェーバーは以下のように述べている.

まず我々が銘記しなければならないのは,倫理的に方向付けられたすべての行為は,根本的に異なった二つの調停しがたく対立した準則の下に立ちうるということ,すなわち「心情倫理的」に方向づけられている場合と,「責任倫理的」に方向づけられている場合があるということである.心情倫理は無責任で,責任倫理は心情を欠くという意味ではない.もちろんそんなことを言っているのではない.しかし,人が心情倫理の準則の下で行為する−−宗教的に言えば「キリスト者は正しきを行い,結果を神に委ねる」−−か,それとも,人は(予見しうる)結果の責任を負うべきだとする責任倫理の準則に従って行為するかは,底知れぬほど深い対立である.

突然,心情倫理家が輩出して,「愚かで卑俗なのは世間であって私ではない.こうなった責任は私にではなく他人にある.私は彼らのために働き,彼らの愚かさ,卑俗さを根絶するであろう.」という合い言葉を我が物顔に振り回す場合,私ははっきりと申し上げる.まずもって私はこの心情倫理の背後にあるものの内容的な重みを問題にする.そしてこれに対する私の印象はといえば,まず相手の十中八九までは,自分の負っている責任を本当に感ぜずロマンティックな感動に酔いしれた法螺吹きというところだ,と.人間的に見て,私はこんなものにはあまり興味がないし,またおよそ感動しない.これに反して,結果に対するこの責任を痛切に感じ,責任倫理に従って行動する,成熟した人間−−老若男女を問わない−−がある地点まで来て,「私としてはこうするよりほかない.私はここに踏みとどまる.」と言うなら,計り知れない感動を受ける.これは人間的に純粋で魂を揺り動かす情景である.なぜなら精神的に死んでいない限り,我々は誰しも,いつかはこういう状態に立ち至ることがありうるからである.そのかぎりにおいて心情倫理と責任倫理は絶対的な対立ではなく,むしろ両々相俟って「政治への天職」をもちうる真の人間を作り出すのである.

なまけものの小人が悪いことに議論の余地はないだろう.しかし現実には,こんな人も少なくはないのだろう.我々は自分の言動を点検してみる必要がある.少なくともその段階はクリアできたとして,問題は,どのような白雪姫を演じるのかということだ.

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