特に京都の社寺仏閣を案内しているときがそうだが,外国人から仏教について,あるいは仏像などの意味するところについて尋ねられることが多い.そんなとき,非常に恥ずかしい思いをすることになる.というのは,自分は仏教や神道の影響下で生活しているにもかかわらず,仏教や神道のことについて「まったく」と言ってよいほど何も知らないからだ.
私は,現代の多くの坊主なんて免許を受けた葬式屋でしかないと思っている.仏教の教えが本来目指しているところを目指す心のある人がどれほど生き残っていることか.そんな気持ちが,仏教から自分を遠ざける.しかし,ますます荒れる世の中を見ていると,宗教や道徳についてどうしても考えざるを得ない.少なくとも,自分が拠って立つべき礎というものを考えるときに,宗教をまったく考慮しないというのは無理なことだろう.もちろん,熟慮の末に神が死んだことを見付けるなら,それはそれで一つの捉え方だと思う.生きるのが苦しくなるような捉え方ではないかとも思うが.
そんなわけで,ちょっとは仏教について知っておかないとまずいだろうという思いから,梅原猛氏の講義録を読むことにした.そこには,こんなことが書かれている.
精進と禅定と正語と忍辱.この四つがあれば,これからの人生,生きていけます.いま,この四つをしっかり持っている人は少ない.しかしこの四つの徳を守れば,きちんと生きていけるんです.だからと言って,うんと出世はしないかもしれない.出世には,上司に恵まれるとか時の運もありますから.だけど,失敗はしない.精進をして,集中力を高めて,正直で,耐え忍ぶことを知っていれば,人生うまくいきます.うんと出世しないかもしれないけど,充実した人生を送れます.
いま文部省が,生徒に奉仕活動をさせようと言っているでしょう.仏教には奉仕なんてないんです.キリスト教なら絶対の神様がいるから,そこに奉仕する.昔の日本だったら,天皇陛下というのは絶対の神様だから,それに奉仕する.だけど仏教は自分が仏なのだから,なぜ奉仕する必要があるのか.
坐禅をして仏になる.托鉢をして忍辱(にんにく)の徳を養う.私は奉仕より坐禅をしたり托鉢をしたりするほうがいいと思うんです.それは仏教的でよくない,一宗教に偏るといったら,奉仕だってキリスト教に偏っている.いまの識者は,宗教についてよく知らない.奉仕というのはキリスト教の道徳です.それに気がつかないほど,日本人は宗教について痴呆になっているんです.